弓 騎兵 ヨーロッパ

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。中世ヨーロッパ(五世紀末~十五世紀末)期の戦争に関わる様々な事柄を豊富な図像を交えて網羅的に解説した一冊。騎士のような重騎兵はもちろんだが、軽騎兵にもページが割かれているのは嬉しい。軽騎兵は騎士が主力となった西ヨーロッパではあまり重視されなかったが、東ヨーロッパでは主力として活躍した。斥候や補給部隊、迅速さを求められる援軍、襲撃作戦などその役割は多岐に渡った。「Call of History ー歴史の呼び声ー」は歴史情報のポータルサイトを目指して、記事の更新を行っています。現状ではサイトを継続していくために皆様の支援が必要な状態となっています。よろしければ資金面や記事を更新する上での参考文献の支援をいただけると幸いです。歩兵の花形というと熟練した剣術で長剣を巧みに扱う剣士なのだろうが、使い方次第では戦局を大きく動かすことになる、ヨーロッパ最強を謳われたスイスの長槍兵をはじめとした槍兵の働きは本書を読んでいても実に面白い。多くは徴募した農民に安価な武器として槍が与えられて戦場に補助兵力として投入されるが、練度の高い槍兵になると目覚ましい働きをするようになる。スコットランド軍やスイス軍は槍兵の練度を高めることで強力な敵を幾度も打ち破った。しかし、中世の戦争では皆名誉欲や目前の利益、己の手柄を重視して戦うので、彼らをコントロールするのは非常に困難であり、彼らは指揮官の条件として最前線で勇敢に戦うことを求めるので、指揮官自ら彼らの上に立つにふさわしいことを証明し続けなければならない。部隊の規律や統率は指揮官個人の力や所属する兵士たちの関係性に大きく左右された。騎兵だけ歩兵だけの軍隊というのはまずありえない。野戦にしても攻城戦にしても騎兵、歩兵、投射兵、工兵が混合部隊を形成することになるが、この指揮命令系統を確立するのは至難の業だった。諸兵科連合などと呼ばれる軍制が確立するのは近世以降のことで、中世ヨーロッパの軍隊は個人の力に頼るところが大きい。中世ヨーロッパの戦争というと、重装備の華やかな騎士のイメージばかりが先行するが、中世の戦争の多くは政治的・経済的利益を目的とした貴族同士の領地争いや利権の奪い合いであり、野戦よりも攻城戦や拠点の襲撃などが大半であった。その中で、戦闘を担う軍隊の構成として騎兵、歩兵、投射兵、工兵の四つが発展した。本書ではその四種について章立てられて、それぞれの発展の歴史と歴史的位置付け、戦術、装備、個々の戦闘技術が具体的な戦闘例や図案とともに説明されている。本書ではその軽騎兵が華やかな活躍をした1410年のグルンヴァルトの戦いが詳述されている。個々の高い戦闘力を誇る強力なドイツ騎士団の装甲騎士たちをリトアニア軽騎兵による機動力を生かした波状攻撃で撃滅する展開は実に熱い。『攻囲戦は専門家が扱う戦争であり、熟練した攻囲戦技術兵が作戦行動を決定的に左右した。』(283頁)『軽騎兵による見張りや前哨地での働きは、戦いを進めるうえで大きな影響を及ぼした。偵察隊や輜重部隊として活躍する軽騎兵は、進軍する地域の情報や補給品を集めながら、敵の同様の活動の阻止にも貢献した。』(131頁)攻城戦における工兵の働きは多岐に渡る。中世の城は、最初は木造の簡易的な施設だったものが石造りになり堅固な城壁を何重にも備え、洗練された様々な防衛機構が整えられていった。これに対する工兵の技術も要求水準もどんどん上がっていく。工兵部隊や砲兵部隊の熟練した技術兵が最新鋭の攻城兵器を扱い攻囲計画の立案実行にも参画して戦局を左右する一方で、工兵部隊の仕事としては塹壕掘りといった低練度でもできる危険な肉体労働もあり、こちらは大量の未熟練農民兵が動員された。同じ肉体労働でも坑道掘りはより熟練した技術者の力が必要とされた。『この時代の戦争では、個人が大きな意味を持っていた。たいていの部隊は――騎士から農民までは――たんに一緒に戦っているだけの個人の寄せ集めにすぎなかった。したがってそのような部隊の雰囲気は、おおむねそこに属する兵士たちの人柄で決まった。これは軍隊の各部門の指揮者についても同じである。指揮官たちのあいだに信頼感があれば、あるいは総指揮官がそれぞれの指揮官の動きをコントロールできれば、力を合わせて戦うことも可能となる。』(15頁)歩兵は共同体の戦士団や民兵から始まり、職業兵士へと発展して王を守る近衛兵(ハスカール)などが登場、一方戦闘が大規模化するにつれて農民たちが徴募兵として動員された。職業兵士たちは歩兵に限らず騎兵や弓兵・弩兵なども含めてマン・アット・アームズと呼ばれて戦争の主力となり、傭兵たちが登場してその多くを担うことになる。中世ヨーロッパにおける戦争の最大の目標は敵の拠点を攻略したり城を手中に治めたり地域を掠奪したりすることだったから、中世ヨーロッパにおいて――中世だけでなく近世以降もずっと、そしてヨーロッパ以外の地域でも――戦場でもっとも働いたのが工兵部隊である。城攻め、攻囲戦、野戦などありとあらゆる戦場で工兵の働きは必須であった。塹壕や坑道を掘り、城壁を破り、野戦築城や防御柵を構築し、破城槌や投石機、火器が登場すると大砲を扱って、と戦場における下準備や技術的な面の全てを担った。特に攻城・攻囲戦などでは工兵を守ることが他の兵科の最大にして最重要の役目であり、敵にしてみれば工兵を撃滅することこそ最大の目標であった。本書を読めば、中世ヨーロッパの戦争が、騎士の突撃やトーナメントだけではない、多様でかなり緻密な実態を持っていたことがわかるだろう。本書とあわせて分野別の専門書を読むとより理解が深まると思う。 さらに、弓騎兵による騎射で重装騎兵を転倒させたり、騎馬を無力化すれば一気に武士が有利になります。極端な話、モンゴル騎兵ばりに和弓を持った弓騎兵で引き撃ちをすれば良いのです。とは言え、プレートアーマーを着た こうしてロングボウ部隊とクロスボウ部隊の射撃戦が始まるわけですが、イングランド軍のロングボウ部隊は高地を取っているため、位置エネルギーによって弓の射程・威力が伸びます。でもフランス軍のクロスボウ部隊は、機械式なだけあって構造が複雑で、ロングボウのような対処法が取れず、クロスボウの弦が雨ざらしになって痛んでしまい、威力が弱まってしまいました。イングランド軍が布陣した場所の西にはクレシー村、その向こうには川が流れており、東には町があるため側面への迂回は難しく、さらに高台に居るためにフランス軍が誇る重騎兵には不利です。イングランド軍のロングボウマンは、自営農民(ヨーマン)に給料を与えて育成していたみたいですね。このロングボウは、戦場で毎分最大6発ぐらい射撃できたそうです。初期のマスケット銃よりも、ロングボウの方が威力が強かったぐらいですからね。こうしてイングランド軍は万全の体制を整え、近くの村から略奪などを行い、英気を養ってフランス軍を待つことができたのでした。フランス王フィリップ6世自身も、乗っていた馬が2頭死に、顔にも矢を受けてしまったために撤退をしました。しかもジェノヴァ人傭兵はフランス軍に長々歩かされてきているのに対し、イングランド軍は今まで休んでいたので活力が違います。このクレシーの戦いによって、今まで職業軍人として全身を防具で身を包み、馬にまたがって突撃していた騎士たちが戦争を主導していた時代から、歩兵の時代に移り変わって、騎士たちの地位が低下してしまいます。しかもイングランド軍は、初期の大砲をこの戦いにいち早く導入してフランス軍に向けてブチかましたため、度肝を抜かれたフランス騎士たちは何度か突撃を失敗します。イングランド軍のロングボウ部隊は、弓から弦を外して雨露から弦が痛むのを保護できました。こうして総計15~16回ほどにも渡って、フランス軍は丘の上のイングランド軍陣地に向かって突撃を繰り返しましたが、全て失敗に終わります。ちなみにイングランドとフランスのフランス王位を巡る百年戦争は、このイングランド軍の歴史的大勝によっても決着がつかず、その名の通りズルズルと百年以上続くことになるのでした。フランス軍のこの動きに気づいたイングランド軍は、有利な地形でフランス軍を迎え撃とうと、クレシーの地にて陣地構築をして待ち受けました。これに対しフランス王フィリップ6世は、サンドニに大軍を集結させます。さらにイングランド軍は騎兵部隊を3つに分け、下馬させました。これはそれぞれの騎兵部隊の両翼に配置されたロングボウ部隊を、騎兵から重装歩兵として転換して守るためです。フランス王国の王シャルル4世は、男児を遺さずに死亡し、約350年フランス王国を統べていたカペー朝は断絶しました。イングランド王エドワード3世は、フランス北部のクレシーにて陣地を構築し、防御態勢を築いて万全の状態でフランス軍を待ち構えました。フランス軍は騎士道で逃げることは恥とされていたし、普通の戦いでは騎士は捕まって捕虜となっても、身代金を払えば戦死することは無かったために、退却を決定するまでに甚大な被害を出してしまいました。フランス王フィリップ6世は、兵士たちが疲れているし、集めていた歩兵たちがまだ到着していないし、物資を運ぶ輜重も足りないので翌日に戦闘をする気でした。さらにクロスボウが1回射撃するのに、ロングボウは数倍射撃できるため、ロングボウで弾幕が張れます。クレシーの戦い以後はこの戦いを見習って、西ヨーロッパでは主力兵科としてロングボウの使用を模索し始めることになります。人馬一体であるモンゴル軍だって、弓騎兵が使うのは短弓ですしね。クロスボウは機械式の弓なので、膂力も要らずに簡単な訓練で撃てるようになりますが、矢をつがえた後にハンドルを巻いて弓を引かなければならないので、射撃速度は1~2分に1回ととても遅いという弱点がありました。何回か中央部に食い込んで、イングランド軍の戦列に到達したフランス軍重騎兵も居ましたが、左右から大量の矢の雨を降らされた上、少数だったためにすぐに待ち構えていたイングランド軍歩兵によって殲滅されました。こんな状況で、フランス軍のジェノバ人傭兵部隊が勝てるわけがありません。ジェノバ人傭兵部隊は、すぐにフランス軍の陣の方に敗走しました。またフランス軍の重騎兵対策として、さらに落とし穴やカルトロップという撒菱のようなものを撒きました。イングランド軍 14000(騎士2500、ロングボウマン(長弓兵)5000、軽騎兵3000、槍兵3500、オルガン砲5)それだけではなく、フランス軍は物資が来るのを待たずに攻撃を開始したため、ジェノバ人傭兵部隊はパヴィースと呼ばれる、矢から身を守れる大盾を持っていませんでした。ちなみに戦争が始まる前、イングランド王はイングランドの王様ですけど、フランス王の臣下でもありました。ややこしいですね。1346年、イングランド軍はフランスにノルマンディーから上陸。このロングボウマンは日本の和弓のように長い弓を装備しています。長弓は速射性は短弓には劣るものの、威力・射程に優れています。

騎士のような重騎兵はもちろんだが、軽騎兵にもページが割かれているのは嬉しい。軽騎兵は騎士が主力となった西ヨーロッパではあまり重視されなかったが、東ヨーロッパでは主力として活躍した。斥候や補給部隊、迅速さを求められる援軍、襲撃作戦などその役割は多岐に渡った。

弓騎兵 ・騎馬遊牧民族の主力兵科であり、最も古くは紀元前9世紀頃の南ウクライナのキンメリア人の記録がある。 ・同じ頃、スキタイ人も現れている。 ・ペルシアも合成弓で武装した軽装弓騎兵を用いた。 当時ヨーロッパ最強だった騎士たちで構成される重騎兵部隊を保有し、数でも勝っていたフランス軍が、たかがロングボウを持った農民に負けてしまったため(といってもロングボウの取り扱いにはかなりの訓練を必要とする)、ヨーロッパでの戦争の概念に激震が走ります。