詩篇 セラ 意味

詩篇18篇には「岩」を意味する二つの語彙が使われています。一つは、2節の「わが巌」で「セラ」(סֶלַע)というヘブル語が使われています。もう一つは、2, 31, 46節の「岩」で「ツール」(צוּר)というヘブ … この「セラ」ということばが意味するものはいったい何なのか。 数年前から、私たちの教会では「セラ」を「完全休息」という意味で使っています。たとえば、明日が月曜日だとすると、「良いセラを」と言って別れの挨拶をしています。 3篇に1つは必ず出てきます。通常は、文中か、文章の段落、節などの終わりに位置しています。しかし詩篇57篇3節の場合は節の中間に来ています。大方の意見は、音楽に関連する言葉ではないかとのことです。おそらく、楽器が間奏曲やシンフォニーを演奏している間、歌い手にポーズを置くように指示する語であるようです。詩篇9篇16節には、「ヒガヨン・セラ」とありますが、これは「楽器の演奏のため間を置く」の意味と考えられています。Copyright (C) 2020 Yahoo Japan Corporation.

「セラ」: 表題ではなく、詩編の中の節のあとに、あたかも欄外に挿入されている。 39の詩編の中にあり、合計91回(70人訳では92回)出る。詩9:17では「ヒガヨン・セラ」。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 詩篇の用語解説 - 旧約聖書中の一書。マソラ本文では「諸書」のうちで真理と呼ばれる詩歌書の第1書で,ヘブライ語で賛歌の意。セプトゥアギンタでは5文学書の第2書で,詩篇の名はこのギリシア語名 psalmos (歌集) による。 ◆このように狭義の「セラ」の時を持つと同時に、ライフスタイルとしての広義な「セラ」があります。つまり、「神を信じることによる休息」をもったライフスタイルです。詩46篇でいうならば、10節の「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」ということになります。この10節もいろいろな聖書で調べてみると面白いですが、一言でいうならば、「静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」です。人通りから離れ、愛の眼差しを神にじっと注ぐことです。現代の競争社会、生産性を重視する社会、活動主義にみちた社会の中で、こうしたセラ的な生き方をすることはとても難しい時代だと思います。ある人にとってそうした生き方に罪悪感さえ覚える人もいるほどです。しかし、神を知り、神を親しく知るためには神との交わりのために時間をとり、じっとして静まり、神の御前で耳を澄まして待ち望むという生活の訓練がなくては、霊的生活に深みを増すことは望めないと信じます。◆この詩篇はこれまでもいろいろな角度から味わってきましたが、今回は各段落に置かれている「セラ」ということばに注目したいと思います。おそらく音楽的用語だと思いますが、詩篇の中では71回使われているようです。詩46篇では3回、段落ごとに置かれています。この「セラ」ということばが意味するものはいったい何なのか。◆数年前から、私たちの教会では「セラ」を「完全休息」という意味で使っています。たとえば、明日が月曜日だとすると、「良いセラを」と言って別れの挨拶をしています。あえて「セラ」の時を持つのです。日々の生活とは異なった休息の時です。人によってその休息の過ごし方は違います。夫婦で過ごしたり、ドライブをしたり、自分の好きなことをしたり、からだを休めます。神様のための働きも休む意味でのセラです。◆イエス様が嵐にもかかわらず、湖の舟の中で眠っておられた姿は理想的な「セラ」の模範です。イエス様は御父に対する信頼の中で安息を得ていました。そのイエス様が私たちにも呼び掛けています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたし のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章28~30節) ライフスタイルとしての「セラ」は、この約束された「たましいの安らぎ」にあると信じます。◆ルターが詩篇46篇をもとに讃美歌を作りましたが、その背景には、当時の教会における現実的な信仰の戦いがあったようです。カトリック教会の諮問裁判の折り、「われここに立つ」と言って、「信仰による救い」をはっきりと主張した彼の姿勢の中に、詩篇46篇の中心テーマ「神がわれらとともにおられる」という信仰に立とうとしているのがわかります。 一般には音楽もしくは朗唱の専門用語と考えられていますが、その正確な意味は知られていません。 一説によれば、この用語は「休止、中止、または抑制」を意味し、間奏のために詩編の歌唱を休止すること、または黙想のために歌と器楽の両方を休止することのどちらかを意味すると言われて … セラ(詩篇) A・O・モルスワス 詩編にたびたび出てくる 「セラ」ということばは、音楽の記号の一つで、 「休め」とか 「ちょっと休止せよ」という意味です。 ところで集会生活もクリスチャンの生活も、 「それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたの どちらにしても、すばらしい詩篇(聖書)に対して私たちの持つべき心の姿勢について教えられますね。 セラ=「一旦停止」だとすれば、そのまま読み流すのではなく、立ち止まって思い巡らし、深く考え、自らに当てはめて黙想し祈るその機会としましょう。 おそらく、楽器が間奏曲やシンフォニーを演奏している間、歌い手にポーズを置くように指示する語であるようです。詩篇9篇16節には、「ヒガヨン・セラ」とありますが、これは「楽器の演奏のため間を置く」の意味と考えられています。 ●ここは「マサの水」と言われている箇所で、出エジプトしてから間もない頃の出来事です。●ここは「メリバの水」と言われている箇所です。イスラエルの荒野生活の終り頃の出来事です。●1節の「彼」とはダビデのことであり、50節の「王」もダビデです。「ダビデとそのすえ」の「すえ」(子孫)は単数形で表されており、メシアを示唆しています。なぜなら、ダビデ契約において、永遠の王国がダビデの子孫であるメシアによって成就することが約束されているからです。●このように見てみると、「主は生きておられる」ということばで最初に誓った人物はサウルのようです。たとえ、この誓いのことばを使ったとしても、必ずしも真実に誓っているとは限りません。●1節と50節で語っているのは、「人称なき存在」です。その間(1節後半~49節)にダビデの信仰告白が綴られている構成になっています。詩篇18篇は「嘆願」そのものはありません。叫びに答えてくださった主に対する賛美があふれています。したがって「嘆願」がなされたという前提がその背景にあります。主に対する力強い信仰告白が生み出される背景には、ダビデのさまざまな経験があったと思われます。それが純化された形で表現されています。●9節の「取り上げて」と訳されている語彙に「ナーツァル」が使われています。ヤコブは叔父のラバンから何度も欺かれ、その報酬についても幾度も変えられました。ところが神はヤコブに対して損になるようにはなさいませんでした。神がともにおられるということはどういうことかをこの箇所は教えてくれます。

『詩篇』または『詩編』(しへん、ヘブライ語: תהלים‎ Təhillīm, 英語: Psalms)は、旧約聖書に収められた150篇の神(ヤハウェ)への賛美の詩。 文語訳聖書では「詩篇」と表記し、口語訳聖書、新改訳聖書もそれを引き継いでいるが、新共同訳聖書では「詩編」と表記している。正教会では聖詠と呼ばれてい …