MET マリア ストゥアルダ
お使いのブラウザは [Met 2012-13] Maria Stuarda メトロポリタン・オペラ マリア・ストゥアルダ 2013-01-19 | オペラ 先シーズンのアンナ・ボレーナに引き続き、本日はゲルブ・メトのマクヴィカー演出、ドニゼッティ・チューダー女王3部作の第2弾、マリア・ステュワルダでございます。 提供: 先シーズンのアンナ・ボレーナに引き続き、本日はゲルブ・メトのマクヴィカー演出、ドニゼッティ・チューダー女王3部作の第2弾、マリア・ステュワルダでございます。歴史上の有名な人物を実名で扱った作品は難しいところがあって、観客としてはまっさらな心で望もうとしてもやはり人物像と作品で描かれる人物とのギャップに苦しむこともあったりします。実際のアン・ブーリンと崇高な魂の持ち主であるアンナ・ボレーナなぞはかなり人物像に乖離があるような感じがするし、「これはアンナ・ボレーナであってアン・ブーリンと思わなければいい」という気持ちが、いいパフォーマンスを通じて持続する時はいいのですが、そうでないときはつい、自分だって敬虔で真面目な前の奥さんを追い出したんだから同じ目にあうのもカルマだったりするんじゃないの、とわたしはなぁんとなく心からは同情しかねたりします。メアリー・スチュワートは、Mary, Queen of Scottsと名前が出ただけで悲劇のカソリックの女王、おっそろしく鼻息の荒いエリザベスにやられてしまった可哀相な女王、なんてイメージが一般的なんじゃないかと思いますが、この二人のドラマは、アン・ブーリン対ジェーン・シーモアのドメスティックな三角関係のキャット・ファイトのレベル以上に面白い。フランス、スペイン、バチカンも大掛かりに絡む、国際的な政治・セックス・宗教・権力争いの人々の欲望がもうどっろどろ渦巻く世界。この実際には対面しなかったという二人の女王の葛藤を、架空の恋愛関係を持ち込んですっきり描いたドニゼッティのマリア・ストュワルダ。アンナ・ボレーナと違って細かい史実が合ってないとうるさく言いたい気持ちにならないのは、この作品ではある意味恋愛がシンボル的というか表向きに使われているけれど、観客としては、政治的にも自分のスコットランド王家を維持したいというメアリの気持ちも分かる、宗教面でも普通の教徒と同じように「カソリック教会の神はわたしの唯一の神」なんていうクレドを毎週教会で宣誓しているわけで、王様/女王も神のような存在のイングランドの新興宗教なんて認められない、そんな勢力にとても屈せない、という姿勢も分かる、と、万国共通で共感しやすいものがあるからじゃないのかな。とはいえ、カラス&ヴィスコンティの黄金コンビでやっと近世人気が出たというアンナ・ボレーナ同様、マリア・ステュワルダもメトでは初演、それもこれもこの作品は一癖ある歴史をたどってやっと戦後に復活したから、のようですね。アメリカではサザランドやビヴァリー・シルズ、またわたしの心の妖精ちゃんのカバリエ、などの素晴らしいソプラノ大スターがこの作品の魅力をみせてくれたり(なんとも古きよき・羨ましい時代・・・)、一方イギリスではマッケラスのENOのジャネット・ベイカー(メゾ版)などが、この作品についてのお喋りになるときには名演として上げられることが多いようです。解釈の歴史が若いのは意欲的なことがやりやすいという長所もあるんじゃないかとわたしは思います。今回のメト版、そういう状況の中、うちがメゾの決定版やります!と画期的なものを出してくれるのか、それとも前回のアンナ・ボレーナ同様、スターは出ていたけれど、なんだか全体的には退屈、になってしまうのか、期待と不安が高まります。 Maurizio Benini マウリッツィオ・ベニーニ 指揮エリザベッタDavid McVicar デイヴィッド・マクヴィカー演出 結論から言うと、やはりどうもゲルブ・メトのチューダー三部作とわたしは相性が合わないようで・・・ 今日は歌手も喉が100%じゃない人もいたり、なんとなくまた、まぁまぁ、な印象になってしまったのは残念です。この作品は二人の女王のドラマとは言え、かなり主役に重心がかかってますから、主役だけ良くても大成功!となってしまうんじゃないかと思います。陽気なヤンキー娘のディドナート、CDもかなり売れているようだし近年圧倒的に人気急上昇ですし、わたしも彼女は素晴らしい歌手だとは思って楽しみにしていたのですが、残念ながら今回はちょっと黒星をつけちゃったなぁ。この役は彼女の代表レパートリーになるにはかなり難がある、せっかくディドナートを今シーズン唯一聴ける機会なら、もっと違う彼女に合ったおきゃんなものとか「湖上の美人」あたりで出てきて欲しかった、です。ディドナートは肉厚な表現もあるし、かなり素晴らしいなと思ったのですが、決めがどうも上手くいかないのが苦しい。たとえ今回音程を下げてもかなり苦しい気持ちがします。半音・全音上下させてソプラノの役をメゾが歌う、メゾの役をソプラノが歌う、ということ自体はわたしは全否定するつもりはないです。というのも、これはその歌手個人の音域や音色の特徴に依存した話だから、と思うのです。この前わたしが今回のマリアを苦しく思った一番の点はこの件と共通点があります。観客側もなんか凄いことをやってる、とどきどきしてしまうような、それがデルモナコのような輝かしいフォルテであっても、カバリエの必殺(わたしにとっては)、この世のものとは思えないような幽玄のピアニッシモであってもいいのですが、音量はどうであれうわーっと美しく伸びた高音で最後決める、というのは、あれは非常に大切な、もう万感の必死の思いが伝わってくるのにとっても大切な表現手段なんじゃないか、と思います。やっぱりああいう決めのトーンがちゃんとしてないと随分物足りなく感じます。ディドナートの場合、ほんと表現力が素晴らしくてうっとりするのですが、フォルテの高音が苦しい、そしてそれにつられたようなムリしてるような風味が聴いていて苦しい。これはわたしにとっては、サッカーで絶妙なパスが続いてボールがゴール前にきて、こりゃあいけるか!と盛り上がったのに、妙な失敗でチャンスを逃したのと同じような大きながっかり感があります。メゾ・フォルテぐらいの音量なら高音もその前後もかなり美しくて心に突き刺さるのですが、どうも力が入ったフォルテになるとムリ感がただよってきます。これはたまたま今回喉の調子が悪かったというのではなさそうで、去年の4月にフロリダでやったときのメゾはこの役にふさわしくないと言っているのではないです。上記のマッケラス版(そもそもなんでソプラノを使わなかったのか、は置いといて、高音がソプラノのようにキンと澄んで華があるようなめずらしいメゾ、コッソットとか、同じヤンキー娘で言うと、グレアムあたりだったら今はどうか分かりませんが、この役もしっかりやれたんじゃないかなぁとも空想します。だけど他に出来る・出来そうなメゾがいるからディドナートが劣っているわけじゃなくて、役と相性が合わないものは合わないでしょうがないんじゃないかな。 そしてソプラノ役をメゾが歌うなんて意欲的なことをやってディドナートを盛り上げてあげたかったんだったら、無理やり今回のチューダー3部作に当てはめないで、なんでディドナートの得意技がもっと使える作品にしてあげなかったのかなぁ、です。ドニゼッティ=ベル・カントなら、ディドナートなんかは得意そうじゃないか、と思って配役した気持ちも分からなくはないですが、わたしの変態的印象ではこの作品はなんとなくディドナートが得意そうなロッシーニ先生よりもずっと初期のヴェルディ作品に近いにおいを感じます。この作品はディドナートの得意技のコロラトゥーラがたっぷり見せ付けられる装飾音符が少ない。あぁ喜劇ものの方がころころ沢山装飾音符がつけやすいということもあるのかな。装飾音符というと下手すると技術的なヴァーチュオーゾ的デモンストレーション、楽器演奏者でいうと古臭いカデンツァのようにただの飾り付け・技の見せつけの場だと勘違いしてるんじゃないの?のようにやってしまう歌手もいますが、わたしの変態的な見解ではそうじゃない。これはかなり豊かに感情が表現できるツールというか武器だと分かって意図的にやっている歌手だとやっぱり聴いてて面白いと思います。ちょっと上手い言い方が思いつきませんが、例えばストレートに「わたしにとっては、バルトリとかダムラウなんかはただ技術が素晴らしいだけじゃなくて、装飾音符部分にそういう独自の行間の複雑な気持ちが込められる歌手、というか、あぁこう言ってるんだろうな、というものが伝わってくるので聴く機会が楽しみな歌手ですけど、ディドナートもこれが出来る歌手じゃないのかなぁ。ソプラノ的華のある歌手の高音の表情豊かなニュアンスの凄さの武器には負けるとしても、せっかく自身の技術的な武器があるのに、その最強の武器を生かしきれてない作品だったんじぁあないんかい? もっと自由に大胆に装飾音なんかを入れ込んでやっちゃって、うわやっぱりメゾ版も凄いじゃないか、ができる作品だったらまた違ったかもしれないのに。ゲルブの企画、はっきりいって発想は面白いし企画自体は悪かぁない。だけど、この人は事前のハイプで切符が売れればあとは知ったこっちゃないのかどうかわかりませんが、中身が伴うexecutionがいつも弱くて実際の鑑賞ではがっかりさせられることが多いのは、中期的顧客の維持には全く繋がらず、ほんと良くないです。 とはいってもディドナート、今回随分最初のガラから歌唱表現が向上しているんじゃないかとは思いました。年始にプレスに叩かれた点の中で、エリザベットに悪態をつくのが全然悪態になってなかったという指摘がありました。ヒーヴァー、先日のインタビューでは丸坊主で登場で期待が高まっていましたし、一幕ではいきなりヒステリックに怒りを噴出させる歌唱表現が素晴らしくって、おっ「あたしちゃんと綺麗にこの音を出せるかしら」なんてうじうじすることなく、思い切りのいいことがちゃんとできる人だわねぇ、と、もうわたしは嬉しくてニヤついちゃって期待してしまいました。この人は高音の表現力がかなりいい。ただそれに比べると、まだ若いからか中音以下の面白さ・音量がもう一つの感じもします。 ポレンザーニ、年明けには病欠していたし、前半は、ティートでは残念ながらわたしは喉が100%でなかった日に当たってしまった様子のガランチャと同じく、あれポレンザーニらしくないぞ?という感じで、突き抜けが悪く喉からジーという副音が聴こえているような状態で、今日は調子がいまいちなんだろうな、でしたが、幕間以降は多少復活したのか、こちらの期待値が調整されたのか、マリアのための命乞いのソロ~重唱での嘆願なんかもかなりいい感じでした。レスターはエドガルド(ルチア)のように、観にいった帰りの電車でつい脳内で永遠ループで再生してしまうような決めのアリアもないし、おいしい役とは言えないけれど、やっぱり優秀な歌手に歌ってもらうとありがたかったのでした。マシュー・ローズはグラインドボーンの映像等で、ほっとするような堅実な歌唱を聴かせてくれるいい歌手だと思っていましたが、生でも素敵、さすがの実力で脇を固めていました。  マクヴィカーはわたしは比較的好きな演出家ですが、このチューダーシリーズでの演出はどうも個人的にはピンと来ず。やはりイギリス人にとっては素材があまりにも身近だからなんとなく無難になってしまうのでしょうか。わたしの印象としては、嘘っぽいのはダサいからちゃんと正統派でやりたい、それとのバランスをとりながら現代と通じる分かりやすさのあるドラマに仕上げたい、という姿勢があるように思います。前回のスーパー正統派な演出は、暗く閉塞感がある石のお城の装置に闇夜のカラスの黒っぽい衣装も含めてなんだかドラマを描くという点では空回りしてたような記憶。アンナ・ボレーナで良かった点のひとつはジョヴァンナの人物像でしたが、今から思うとあれはジョヴァンナを演じた歌手の持ち味で随分微妙な深みがでたのでは。今回は舞台が象徴化されてシンプルで構成も絵的に見やすいのはかなり向上点ではありますが、わたしはさほど面白さを感じず。今回のエリザベッタの設定は極端に言うとちょっとモンティ・パイソン的なカリカチュアです。たしかケイト・ブランチェットのエリザベスの映画の最後も普通の恋愛とか政治結婚とかもう慣例かまわず今後は「あたしというユニークな女王」でいこう!と変身してたんじゃなかったかと思いますが、ああいうのでおなじみな、異次元的というか、あの時代、女だてらに強国を統治する王はやっぱりちょっと普通じゃない人なんだわ、と思うような衣装とメイクにへんしーん、します(それまでもエリザベスの足の疾患を強調したファニー・ウォークをやってたりしますが。)あの映画は大ヒットしたし観客の多くも既視感を覚え、ああそういうことを言っているのね、とピンとくるというのを分かっていてやっているのでしょう。上記のENOのマッケラス版でも少々タイミングは違いますが、処刑前に黒い服を脱ぐと下は赤い下ばきドレス、とマリアの処刑時の衣装は色彩的にドラマチックなものがありますが、あれは別にマクヴィカーが今回この版を真似したとかいう話じゃなくて、史実に基づいたものらしいですね、わたしは今回始めて知りました。赤はカソリックでも殉教(そして聖者)の意味があるし、女王としての祖国へのパッションも感じるし、非常にシンボリックですよね。これもイギリスではそうじゃないと妙な感じがするくらい定番なのでしょう。カソリック的観点だとやはりここは天草四郎とか長崎の丘の殉教者たちとかと通じるところがあるように見てしまうんですけれど、じんせぃーいぃ五十年・・・の信長の美学、あれはフィクションなんだろうけれど、ああいうあっぱれさに通じるようなところも少々あって、メアリが女王として優れた人だったのだなぁと思うのは、自分の処刑がただ一個人の無念の死、で終わるのではなく、残される人々や後世に意義深いものであるようにという思いもあったのでしょうか、ここは最後の一勝負、と気合を入れてた様子。真っ赤な下ばきを意図的に着たのもそうですが、幽閉中のストレスで白髪になったところに、彼女は鮮やかなとび色の鬘をつけて処刑に臨んだらしい。これに関しては通例どおり切れた首を処刑人が見物人に掲げる際にぽろっととれちゃって、あれ、鬘だったの?と逆に驚かれたそうですけれど。メアリ自身はそういう「あっぱれな女王の殉教」をある意味意図的に演出したのでしょう。 さて最近本文との関連性が薄いおまけクリップ、本日はメゾが歌うベルカントもの、というだけの関連で、チェチーリア・バルトリの夢遊病の女から。バルトリは夏にザルツブルクでなんとノルマをやるんですねぇ。彼女なぞはもう100年に一度出てくるか出てこないかの逸材だと思いますが、かつて夢遊病の女も全幕録音していたのですね。このクリップを見ると、少々ハスキーでドスが効いてて凄いなと思う部分もありますけれど、わたしなんかはメゾがソプラノ役をやっていいもんかどうかという点はあまり気に懸かりません(あまり意識して見すぎると内田光子さん並にお目々が怖いことになってますが、内田さんと同じく音楽家は見かけだけが勝負なわけじゃないですのでご勘弁を。)好みの問題なんでしょうが、アンジェリーナ・ジョリー並の美人、だけど歌唱が・・・なんていうソプラノがやるのを見るのはわたし自身は遠慮つかまつる、と思うけれど、そしてもうアメリカには来てくれなさそうですけど、バルトリを再びメトで聴けるならわたしはすっ飛んで観に行きたいです。