海闊天空 歌詞 日本語

中国語歌詞・中国歌手を検索できます。歌詞はピンイン付きで3000曲以上収録しています。流行の歌はもちろん、日本語のカバー曲まで網羅しています。さあ、あなたはどの曲に心惹かれましたか?c-popで楽しく中国語を学びましょう♪阿宝。阿杜。 ときに優しく強く(Don't be afraid) 寝転んで見あげた空 このブログのテーマは「うたを翻訳するということ」である。だから当然、英語以外の曲もここでは取りあげる。自分にとって最も大切な3つのバンドの曲を最初に紹介した上で、ストーンズとビートルズを出したその後に来るバンドは、私にとってはBEYOND以外にありえない。この歌が書かれた場所は日本で、この歌を書いた人は香港人だった。(彼が自分を香港人と呼ばれたいと思っていたか中国人と呼ばれたいと思っていたかについて、いつも私は考える。もちろん私にはわからない)。そしてこの曲を書きあげてからほどなく、彼は日本のテレビ局が企画したふざけた番組の収録中にーーそのふざけた番組を私は実は好きだったのだけどーー舞台のセットから転落して頭を強打し、この世を去った。彼が話した言葉は広東語で、その歌も広東語で書かれている。広東語は広大な中国大陸のほんの一部の地域で話されている言語にすぎない。けれど20年以上が過ぎた今でも、彼の歌とBEYONDというバンドは、すべての中国語世界において、ヨーロッパの総人口を遥かに超える人々の心と記憶に息づき、なおも生き続けている。この歌に対して、私は強い思い入れがある。あまり思い入れが強いと、かえって何も書けなくなる。だから今回は、歌詞と対訳だけを掲載したい。ただしこの対訳には、本当に長い時間がかかった。自分でもどう訳していいか分からずにいたところで、香港で生まれ上海で育ち今は日本に来ているある人と出会う機会があり、「私はあの時あの場にいることができなかったけど、私たちはみんなあの時こんな気持ちで歌っていたんだ」というその「気持ち」を、初めて広東語を自分の言葉にしている人の口を通じて、聞かせてもらうことができた。だからこの翻訳は、絶対に「正しい」翻訳である。私の「解釈」は、一切挟まれていない。その人たちは「こんな気持ちで」あの時この歌を歌っていた。それは「こんな歌」なのである。↓ 下は、ネットで知り合った中国の多くの若い人たちとのやりとりを経て上の訳詞を完成させるに至った経過の記録です。  「未完の革命」として圧殺された2014年の「雨傘運動」は、奇しくも黄家駒が生きていれば57回目の誕生日を迎えていたはずの2019年6月10日、中国政府が「犯罪者」と見なした人間を大陸側に引き渡すことを可能にする条例改定案への圧倒的な反対デモとして劇的な復活を果たし、香港行政府に条例案の撤回と謝罪を強制する決定的な「勝利」を闘いとった。運動の直接の「成果」はいまだ支配者層から多少の譲歩を引き出したことに限られているとはいえ、この「勝利」は疑いなく香港の人々自身に「闘えば勝てる」という「自信」をもたらし、かつ世界中の人々に「香港のように闘えば自分たちも勝てる」という「希望」を与えるものとなった。この「希望と確信」を握りしめることのできた人間が、再び「絶望」に支配されることは、何らかの物理的な挫折を強制されることのない限り、もはや二度と起こりえないことなのである。従って支配者たちはこの民衆の「希望と確信」を何より恐怖し、それを打ち砕くために「反撃」を仕掛けてくることを必然としているし、またそれを全世界において貫くために他国の支配者たちと「国際的な協調」を深めてゆくことをも必然としている。「治安」だ「反テロ」だと言ってこの日本で押し進められている行政権力の肥大化も、大きくはその一環に他ならない。「本当の戦い」が始まるのは正にこれからだと言えるが、少なくとも今この瞬間において香港の人々が我々の眼前に「切り開いて」くれたものは、圧倒的な「希望」なのである。香港の人々、台湾の人々、そして大陸の人々がこの「希望」をどんなことがあっても「握りしめて離さない」ことを私は切望するし、同じことを自分自身に対しても絶えず言い聞かせ続けねばならないと思う。世界は必ず変わるのだ。そしてその中にあって、「国家」ならざる香港という土地の「アンセム」として歌い継がれてきたこの曲への注目が、世界中で改めて高まっている。先日は東京で開かれた香港との連帯集会の現場で、少なからぬ日本人が「海闊天空」の合唱に参加するためにスマホでこのページを開いてくれたという話が、私のもとにも伝わってきている。そうした形でこのブログが「役に立てる」ことがあるのであれば、私にとってこれほど感動的なことは他にない。しかしながら私自身、この歌が「どういう歌」であるかをいまだに「ちゃんと」分かっているとは言いがたいし、また大陸の人や香港の人、それぞれから聞いてきたこの歌の解釈も決して一通りではない。それを「日本人」である私たちが「想像し自分のものとする」ための一助として、この曲をめぐり私が「今までに聞いてきた話」を、参考のために綴っておきたいと思う。三宅裕司の「驚き桃の木20世紀」という番組のエンディング曲で、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」収録中に事故死させられてしまった気の毒な香港の有名歌手が作った歌。当時中学生だった私の記憶にそんな形でしか残っていなかったこの歌が、21世紀の中国語圏ではどれだけの「歴史的名曲」として若い世代に歌い継がれているかということを私に最初に教えてくれたのは、「大陸」中国の山東省出身の人だった。その人は私より若いのにマニアックなぐらい80〜90年代のアジアの音楽事情に詳しくて、その語るところによるならば1990年代の初頭、香港で押しも押されぬトップスターの座に登りつめたBEYONDが「世界進出の足がかり」として新たな活動拠点に選んだのが、日本だったのだという。しかしながら日本に拠点を移すことは、長年自分たちを支え続けてくれた香港のファンや家族や友人、そして恋人のことを「裏切る」ことにつながるのではないかと自問自答する気持ちが、黄家駒の中には重くのしかかっていた。言葉も気候も食べ物も違う日本にやってきた当初、BEYONDのメンバーは山中湖のスタジオに缶詰めにされて、練習と曲作りにいそしんでいたのだが、「自分たちはこんなところで何をやっているのだろう」という気持ちが、ともすれば絶えず頭をもたげてくるのだった。ある夜、その山中湖のスタジオの窓の外に、地元の香港では一度も見たことのなかった「雪」がちらついている光景を、黄家駒は目にした。自分は「異郷」にいるのだという感覚とつきせぬ「望郷」の思いが家駒の胸を掻き乱したが、それを「断ち切る」ために彼氏の書いた歌詞が「ただ、この歌を「そういう歌」だと解釈しようとした場合、「願諒我這一生不羈放縱愛自由」は理解できても、他の歌詞との関わりがよく分からなくなってくるのである。山東人の友人の説明を額面通りに受け取った場合、この歌は明らかに恋人を、家族を、地元のファンを、香港そのものを「捨てる」ことを宣言している歌だ。それなのに最後のフレーズでは「哪會怕有一天只你共我」などと言っている。直訳するなら「たとえあなたと私だけになってしまう日が来ようとも、恐れることなどあろうか」である。一方では「許してほしい」と言って「自由の世界」に飛び出しておいて、一方では「世界で最後の二人になっても君とは離れない」と言っている。この主人公は「どうしたい」のだろう。「捨てる」つもりがないのなら、「願諒我 (僕のことを許してほしい)」というのは「誰」に向けられた言葉なのだろう。その辺のことをどうしてもハッキリさせなければ気の済まなかった私は、上にこの歌を「そういう歌」として解釈した場合、例えば少年マンガの主人公が「この歌がそんな風に「いろんな聞き方」のできる歌である以上、当初の私がそうなったように主人公は相手のことを「捨てようとしている」のかそれとも「一緒にいたいと思っている」のかみたいなところで混乱に陥るのは、それこそ無意味なことだと言えるだろう。「いろんな聞き方」がされていることの上でこの歌は本質的なところではやはり「ラブソング」なのではないかという感想を私は捨てきれずにいるのだけれど、少なくとも言えることとして主人公は「你」との「関係」を「捨てよう」としているわけでは絶対にない。ただその関係を「変えよう」としているのであり、そのことによってどんな困難を引き受けることになろうとも自分の決意は変わらない、ということを主人公は歌っている。その意味で言うなら、このブログのごく初期に取りあげたU2の「  以下はその他、この曲の解釈をめぐる細かい覚え書きとして。下の動画は、東京の街角で「海闊天空」の日本語バージョンを歌う歌手の歌声に中国人の少女が広東語で唱和したら、実は歌い手も中国人でお互いに号泣しながら大合唱になってしまった、という内容で数年前に中国語圏で爆発的に広がった動画。東京や大阪という「自分たちの街」が「そうした出会い」をも生み出しうる「街」でありえていることを、私を含めたほとんどの「日本人」は、知らないままに生きているのだと思う。    (人は皆ひとりきりじゃ)Woo~ イーチャイナアカデミー運営中国語学習サイト中国語歌詞・中国歌手を検索できます。歌詞はピンイン付きで3000曲以上収録しています。