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2017年12月4日 [李承晩政権の崩壊] 李承晩が4・15革命で1960年4月26日に失脚した後の翌日から1960年8月12日まで大統領権限代行を務めたのが[許政(ホジュン)]で、次の1960年7月29日の選挙で[尹潽善(ユンポソン)]が当選し第4代大統領になったが、思い切った政策の転換も出来ずに1961年5月16日、[5・16軍事クーデター]で憲法停止となった。 [朴正煕(パクチョンヒ)の軍事クーデター(1961年)] クデーター直後に宿舎から脱出していた[張勉首相]が1961年(昭和36年)5月18日に姿を現すと、臨時閣議で軍事革命委員会への政権移譲を決議し、大統領も非常戒厳令を追認して軍事革命に対する国民の支持と協力を求める声明を発表した。 [クーデター直後]の1961年(昭和36年)5月16日PM11:00、カーター・マグレーダー駐韓アメリカ軍司令官は張勉政権を支持しクーデターに反対する声明を、米軍放送を通じて発表した。その後に駐韓大使とともに青瓦台を訪問して大統領にクーデター軍を鎮圧するための動員令を韓国軍に下す要請をした。大統領は国軍同士が衝突すればソウルは火の海になり、その隙に北が南進する恐れがあることを理由に、要請を拒絶した。 [日韓国交正常化と日韓基本条約までの道のり] 『李承晩政権時代の対立と朴正煕政権の経済事情』 1960年代当時の韓国は底無しの経済不振と失業者の増大に悩んでいて、朴政権は日本の経済協力を必要としていた。 ベトナム戦争(1965年=昭和37年2月の米軍北爆開始より1973年=昭和48年米軍撤退)の際に援助金目当てに朴正煕政権(1963年(昭和18年)~1979年(昭和54年)暗殺まで在任)は32万人の韓国軍をベトナムに送った。韓国軍だけで虐殺したベトナム人の犠牲者は30万人を超え、それに加えてアメリカ軍の仕事はまた別の数字である。あまりの残虐行為の連続で、その戦闘内容は現在でも米軍および韓国軍の検閲官が強権(絶対権力での強制)を発動して、事実の隠匿を図っているほどである。その内容が文字にできないような、おぞましいものであっからだ。 [朴正煕(パクチョンヒ=ボクセイキ)という男] [朴正煕]の略歴は、  1965年6月に日韓基本条約と付属協定が調印されたが、日本が金を盗られ、韓国が国庫に納めただけではなく、以下の5つと、決められた他の4つの付属協定書に互いに調印している。 [朴正煕(パクチョンヒ=ボクセイキ)]政権の日本との友好姿勢は[国内民族主義(左派ナショナリズム)から敵視されることになり、政権後半には大韓民国単独での[核武装]を伴う自主国防路線を考慮したり、日本滞在中の[金大中(キムデジュン=民主活動家で後の第15代大統領)]を諜報機関(KCIA)を使い拉致し、日本の国家主権を侵害する強硬な政策を進めたりもしている。 [朴正煕]は暗殺されたが、[韓国大統領の全体的な末路]を覗いてみれば、さほど恥じる一生ではないと思われる。 私し個人としての見解を言っても始まらないことは百も承知だが、[朴正煕(パクチョンヒ=1917~1979年)]が独裁者であっても、他の国々でも近代的な国家に成長していく過程で独裁的人物が出ないほうが、むしろ珍しい国家のように思える。それは今でも社会主義の国家に息づいている政治形態だ。民意が極端に低い当時の韓国にあって、同じ独裁政権あても[李承晩]と[朴正煕]を比べた場合に、頑なに権力にしがみ付く醜態をさらして目先のことで片意地を張る前者と違い、少なくとも[朴正煕]は大韓民国の発展に力を注ぐ政策に果敢にチャレンジしていたように思えてならない。虐殺の限りを尽くしたベトナム戦争派兵での韓国兵士の所業には今でも怒りを覚えるが、兵隊を組織する人選時に犯罪者や、一般社会で通用しない街の与太者が大勢紛れ込んでいたことを伝い聞いたことがある。当時の韓国は世界でも一二を争う貧乏国だといわれているので、人間的に欠陥のある者の多い社会だったはずだ。 1965年に締結された[日韓基本条約]の中には、朝鮮人の日本軍属と官吏への未払い給与や恩給や接収財産など大韓民国の対日債権に対しての支払分などの条項も含まれていた。 当時、韓国政府は日本政府に強制徴用被害者名簿の提出を申し出たが、日本政府は『韓国政府に証明義務がある』と突き放すと、被害者数を103万人余と申し出た。あとで、この数字に付き交渉に参加した韓国側担当者に疑問点を問いただすと、別に悪びれたふうもなく『日本まかせの我が国には資料が何もないので、適当に算出した』と答えた。そして、2009年の韓国政府の発表では12万人だといっている。まったく、良い加減なやつらもいたものだ。 [韓国側から見たベトナム戦争と朴正煕(パクチョンヒ)批判][参考文献] '80's中心の懐かい「洋楽」、懐かしの名作・怪作「映画」、「ケータイ刑事」を三本柱として、その他一部の「ドラマ」や特撮ヒーロー、等について述べています♪(ネタバレはたっぷりとあります) 2018年1月25日  『ジンは、オランダ人が生み、イギリス人が洗練し、アメリカ人が栄光を与えた』と、アメリカの呑兵衛どもが自慢するだけあって、アメリカ人が考案したジンをベースにしたカクテル[マティーニ]は、多くの自称紳士、淑女たちから『カクテルの王様』だと言われている。 大西洋を西に進路を向けて北アメリカ大陸東海岸にたどり着いた組のスペイン人が、温暖な南部地方を制圧した。噂を聞いた国々のそれぞれも船を出して『新大陸』と名付けた東海岸に上陸してから町をつくり、そこを起点として西に向かって浸透していった。欧州勢は自分たちが歩き回った地域すべてを植民地としていった。女性の事ばかり考えている人種だとばかり思っていたフランスが一番広大な土地を手に入れた。 [酒を混ぜる文化] [マティーニ]は、確かにジン4に対してベルモット1の割合で混ぜたものだが、ベルモットの量を少なくしたものを[ドライマティーニ]と呼ぶとは何度も言ったが、この比率が人により異なる『こだわり』の部分である。バーのカウンターの奥の方に陣取るいつもの常連客同士が、ひときわ声を落として議論する話題の70%は、この独自の[こだわり]に関するもので、自分の説を独善的に批判してやまない20年来の呑み友達を静かに表に誘い、互いに右手にピストルを握り背中を合わせてから7歩ほど数えたところで振り向いて相手に向けて引き金を引く、世に言う決闘に発展することもあり得る。 [強烈なイメージを秘めるカクテル『ブラッディ・マリー』] [そもそもイギイリス王室はいつ頃から始まった]かと言うことをハッキリしておかなければならない。 [ノルマン・コンクエスト] 大昔から独立国家だと思われがちなイギリス、フランス、ドイツなどの現在の国家は、[近代(時代区分としては近世と現代の間に位置する時代)]以降に成立した国民国家であって、それ以前の[中世]にあっては明確な国家の境界線などはないに等しかった。実際にイングランドは長いあいだフランス国内に領土を持っていたし、[ヘンリー3世(イングランド王1207~1272年)]がフランス国王の地位を主張したことにより、百年戦争が起きたことでもわかる通り、彼らにはイギリス、フランス間の明確な線引きは無かったのである。 [百年戦争] そもそも[百年戦争]に至る英仏両王家の対立の発端は、 13世紀初めの[ジョン王(在位1199~1216年・49歳没)]の時には[ノルマンディー]などをフランスの[フィリップ2世]に奪われていた。 戦争初期にはイングランドが[ヨーマン(イングランドの独立自営農民)]を中核とした長弓隊の活躍があり陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得することで有利に進めた。 1428年、イングランド軍が[オルレアン・アルマニャック派]と[シャルル7世]の拠点[オルレアン(フランス中部の都市)]に対する総攻撃を開始、[シャルル7世]は包囲されるという危機に陥った。この危機を救ったのが[ジャンヌ=ダルク(フランス王国の軍人)]で、1429年に[ジャンヌ・ダルク]に鼓舞されたフランス軍は反撃に転じ[オルレアン]を解放し、[シャルル]は[ランス]で戴冠式を行った。勢いに乗った[ジュンヌ・ダルク]率いるフランス軍はパリ攻略に向かったが、ジャンヌは[ブルゴーニュ派]の兵士に捉えられてしまった。イングランド軍に引き渡されたジャンヌは宗教裁判にかけられ、1430年に火刑に処せられた。 [ジュンヌ・ダルク]の登場によってフランスに国民的統合の機運が高まり、[シャルル7世]は1435年には[ブルゴーニュ派]と[アラスの和約(フランスとブルゴーニュとで結んだ講和条約)]で講和し、その後にイングランドと[ブルゴーニュ派]の同盟も破棄されたことで、百年戦争終結の機運が一気に高まった。フランスの2派は一致してイングランドへの反撃に転じ、1436年には[リシュモン元帥]率いるフランス軍がパリに入城、1450年にはノルマンディを奪還、1453年にはイングランド領[ギエンヌ地方]の中心地[ボルドー]を占有した。これによって[カレー]を除いて、ほぼフランス本土からイングランドの支配地はなくなり、百年戦争は終結した。 [薔薇戦争] さて、ここからが、現在のイギリス女王[イリザベス2世]の21代前(約460年前)の女王『メアリー1世(1553~1558在位)』]の話しになるが、主役登場までに時間がかかりすぎて、気の長い話になってしまった。[メアリー1世の幼年期] [『エドワード6世』の死と女王『メアリー1世』の即位] [イングランド女王『ブラッディ・メアリー』の宗教政策] [イングランド女王『メアリー1世』の『フェリペ2世』との結婚] [メアリー1世]の次の『イングランドとアイルランドの王』が、現在のイギリス女王[イリザベス2世]の20代前の[イリザベス1世(1533年~1602年・69歳没、在位1558~1603年・在位45年間)]だ。 この雑文をまとめるまでの私は[イギリス]と[イングランド]は呼び名の違いで同じ国だと思っていたが、大変なまちがいだったと知らされた。 [メアリー1世]や[イリザベス1世]の父親の[ヘンリー8世]は精力絶倫の体質で数えきれない女性との浮名を流したが、法律で重婚は禁じられていたので妃となるのは1人が原則であった。それでも生涯に6人の妃を持っている。 今はないイギリス皇太子妃[ダイアナ]が語った言葉に、 最近になりヘンリー王子がマスコミに対して、『時が来れば真実を語りたい』と話したという。 ダイアナによれば1984年に次男のヘンリーが生まれた時点で気持の上での二人の関係は終わっていたという。結婚前に皇太子が付き合っていた[カミラ]とは結婚を機に絶たれていた交流が、そのころから再開されたことがをダイアナは知っていた。チャールズとの別居は離婚で終止符が打たれたわけだが、そんな時にエジプトの億万長者[モハメド・アルファイド]の息子の[ドディ・アルファイド]と知り合い、チャールズとの離婚後に懐妊疑惑が持ち上がっていた。