悪魔の詩 訳者 殺人事件 犯人
目次悪魔の詩訳者殺人事件とは?未解決事件?悪魔の詩とは?悪魔の詩訳者殺人事件の犯人は誰?犯人はわかっていた?悪魔の詩訳者殺人事件への反応は?海外でも被害者が?悪魔の詩訳者殺人事件のその後は?日本で起こった宗教関連の事件「悪魔の詩訳者殺人事件」は宗教争いによる事件「悪魔の詩訳者殺人事件」とは1991年にあった殺人事件で、殺害されたのが「悪魔の詩」の翻訳者である筑波大学の五十嵐一助教授だった為、日本だけでなく海外にも衝撃を与えた事件です。ここからは、「悪魔の詩訳者殺人事件」についてご紹介していきます。1991年7月11日、筑波大学の五十嵐一助教授が夏休みのキャンパス内で首を切られて殺害されました。五十嵐助教授が殺害されていた場所は、キャンパス内の7階エレベーター前の踊り場で、早朝に清掃のため出勤してきた清掃員の女性が発見しました。五十嵐助教授は左側を2ヶ所、右は一ヶ所頚動脈を切断するほどの深さまで切られており、首以外にも右側の胸、腹などを3ヶ所刺され、傷の一部は肝臓まで達していました。殺害されたのは遺体が発見される前日の7月11日だと断定されており、現場からは、五十嵐助教授のものではないO型の血液型と中国製カンフーシューズ(サイズ27.5センチ)が発見されています。被害者となったのは、筑波大学助教授の五十嵐一助教授(当時44歳)です。1976年~1979年の間にイラン王立哲学アカデミーに留学し、この時イラン革命を体験した事で日本へ帰国後に「イラン体験-落とされた果実への挽歌」を刊行するなどイスラム研究者として知られていました。そして1986年に筑波大学で現代国語、文系助教授に就任します。五十嵐助教授はイスラム社会から禁書として扱われていたイギリスの作家サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」を邦訳するほか「イスラーム・ラディカリズム-私はなぜ「悪魔の詩」と訳したか」「イスラーム・ルネサンス」「神秘主義のエクリチュール」などの著書があります。五十嵐助教授が翻訳をした「悪魔の詩」とは、コーラン(イスラム教の聖典)を指す言葉で、この小説は「イスラム教をを冒涜している」と言われいます。小説の内容はイスラム教の預言者(ムハンマド)の名前を持った売春婦が登場していたり、イスラム教で「マハウンド」というイスラム教の軽蔑の対象になる名前の預言者が登場しています。これらの内容はイスラム教徒にとって、侮辱的、攻撃的と感じられる内容と言われており、全体的にイスラム教を揶揄するような内容は「イスラムに対する挑発だ」と問題視されています。「悪魔の詩」が発売されてから1ヶ月ほどたった頃、イランの最高指揮者ルーホッラー・ホメイニが「悪魔の詩」の著書ラシュディと「悪魔の詩」の出版に関わった人物に死刑を宣告しました。イスラムでは、宗教指導者の布告を「ファトワ」と言い法律と同じ扱いになります。さらに「悪魔の詩」の作家であるラシュディを処刑した者には賞金を与える事も発表ししています。その賞金額は処刑したものが外国人だった場合は100万ドル(当時の1億2500万円)、イラン人が処刑した場合は2億リアル(当時の約3億6000万円相当)という内容です。しかし、ファトワを布告したホメニイ師は同年に死去します。フォトワは布告をした人間にしか撤回できないため、「悪魔の詩」に関わった五十嵐助教授はこれによって殺されたのではないかと言われています。1991年7月に五十嵐助教授が殺害された15年後の2006年7月11日、犯人が特定できないまま殺人罪の時効が成立し「悪魔の詩訳者殺人事件」は未解決事件となりました。しかし、この事件は「外国人犯人説」が有力で犯人が海外へ逃亡していた場合時効が成立しません。五十嵐助教授は、学生たちに「死刑宣告をされている」「狙われているんだ」などと冗談っぽく話す事もあったそうです。また、五十嵐助教授が殺害されたあと警察の捜査中、校内の五十嵐助教授の机の中からあるメモが発見されました。メモは、日本語とフランス後で壇ノ浦の戦いの四行詩が書かれており、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の文章に対してフランス後で「階段の裏で殺される」という意味のメモでした。五十嵐助教授は自分が殺害されることが分かっていたため、このメモを残したのかは分かりませんが実際に五十嵐助教授は階段の踊り場で殺害されていることから事件とは関係ないメモとは言い切れません。ホメイニ師が死刑宣告をしたあと、地元のつくば中央署が五十嵐助教授の身辺警護を打診しました。しかし、五十嵐助教授は「本を読んでもらえば、自分が誤解されることはない。」とこの申し出を断っています。もし、この時五十嵐助教授がつくば中央署の身辺警護の打診を断らなければ殺害されることはなかったのかもしれません。犯人が特定できないまま「未解決事件」として時効を迎えてしまった「悪魔の詩訳者殺人事件」ですが、犯人について様々な憶測があります。ここからは、「悪魔の詩訳者殺害事件」の犯人像についてご紹介していきます。五十嵐助教授を殺害した犯人について様々な憶測がありますが、シーア派イスラム教徒のイラン人説が有力だと言われています。その理由は、五十嵐助教授が殺害される前にイタリアミラノで「悪魔の詩」のイタリア語翻訳者が襲われ重症を負う事件が発生しています。さらに、五十嵐助教授が殺害されたあとにイランの日刊紙が五十嵐助教授の殺害に関して「全世界のイスラム教徒にとって朗報だ」と発表していました。CIAの元職員は、五十嵐助教授を殺害した犯人はイスラム革命防衛隊の体外工作やテロ活動などを行っている特殊部隊のゴドス軍である可能性を示唆しています。五十嵐助教授を殺害する際に、目撃されにくい研究室など個室で犯行を行うのではなく目撃されやすいエレベーターホールで襲撃したのは見せしめのためではないかと考えられています。イタリアのミラノで「悪魔の詩」のイタリア語翻訳者がナイフで襲われ重症を負った事件から2年後の1993年に次は「悪魔の詩」トルコ後翻訳者の集会が襲撃されました。これによって37人もの人が死亡。そしてイランの反政府組織がある通信社に「日本での事件(五十嵐助教授の殺害)は、暗殺団による犯行である」という旨の声明が送られてきました。声明によると、「いくつかの暗殺団組織があり「悪魔の詩」に関わる人物を処刑するために日本、イタリア、スイス、フランスなどに暗殺団を派遣した」という内容でした。五十嵐助教授の遺体が発見された12日の昼過ぎに成田かたバングラディッシュへ出国した男がいました。この男は、筑波大学に短期留学生をしていたバングラディシュ人でイスラム文化圏の国の出身です。事件の起こった当日に急に母国へ帰っている事などから犯人の可能性が考えられています。この情報は茨城県警のわずかな幹部にだけ知らされ、厳重に箝口令が敷かれていました。しかも警視庁は国際刑事警察機構へブルーノティス(青色手配書)を依頼する事もなく、この留学生の逃げた場所、国の照会もしていません。その理由は、日本政府がイスラム諸国との関係悪化を恐れたためで、イスラム文化全体を敵に回す事になりかねないという判断から日本政府の以降で捜査は打ち切られています。また、犯人が海外逃亡をしている場合は時効が成立せず、この事件の犯人は外国人が犯人である可能性が高いにも関わらず警察は証拠品を遺品として遺族に返還しています。ここからは「悪魔の詩翻訳者殺人事件」の海外の反応などをご紹介していきます。五十嵐助教授が殺害される事件意外にも「悪魔の詩」に関わった人物が襲われる事件があります。1993年に、「悪魔の詩」の翻訳者たちが集まっていたところ何者かに襲撃を受け37人が死亡しています。この事件も、「イランの組織が関わっている」と言われています。さらに、五十嵐助教授が殺害される一週間前にはイタリアのミラノで「悪魔の詩」をイタリア語に翻訳した人物が全身をナイフて切られて重症。ノルウェーでも「悪魔の詩」翻訳者が襲撃されました。この事件の海外の反応は、五十嵐助教授が殺害された事件の時効と同時期にCIAの元職員は「イスラム教徒の犯行である」と示唆し、イランの日刊紙では「五十嵐助教授の死を歓迎する」と歓迎されました。この事件は2chでも話題になっており「他国で好き勝手に殺人をして未解決になるなんて嫌だ」「暴漢はどこからやって来て、教授は何回に降りるつもりだったのだろう?」など様々な推測がされていました。ここからは、「悪魔の詩翻訳者殺人事件」のその後をご紹介していきます。五十嵐助教授が殺害されてから27年後、東京都千代田区の日本プレスセンタービルで五十嵐助教授を「偲ぶ会」が開かれました。偲ぶ会には、五十嵐助教授の教え子や友人ら約80人が集まったそうです。五十嵐助教授が殺害されて27年が経った2018年、「悪魔の詩訳者殺人事件」を風化させない目的で、「回想五十嵐一氏の会」が作られました。ここでは、五十嵐助教授の関係者の言葉を集めた追悼集が配布されています。五十嵐助教授は、事件当時妻、妻の両親、中学3年生の長女と、小学6年生の長男がいました。現在長女は結婚しており、長男は東京大学院薬学系研究科医薬政策学教室の特任准教授となったそうです。「悪魔の詩」の著者サルマン・ラッシュディ氏は現在も作家として活動をしています。多くの犠牲者が出る事となった「悪魔の詩」について「後悔はしていない」と語っています。日本でも宗教絡みの事件が多数あります。ここからは、日本で起こったカルト事件についてご紹介します。宗教団体「オウム真理教」とは、1987年~1990年代中期にかけて殺人、テロを起こした宗教団体です。オウム真理教の教祖、麻原彰晃(松本智津夫)が「日本を乗っ取り、王として君臨する」ことを現実化するために世界各国で軍事訓練を行ったり、銃の密造、化学兵器の生産を行いました。そして教団に逆らうものは殺害、無差別テロが行われ、特に注目された事件は「松本サリン事件」「坂本弁護士殺害事件」「地下鉄サリン事件」です。これらの事件は「オウム3大事件」と呼ばれており一連の事件で殺人26名、監禁致死1名、殺人未遂2名、負傷者6000人を超えており教団内で分かっている5名が殺害、死者行方不明者は30人以上に及びます。また、「地下鉄サリン事件」は世界的にも類を見ないテロ事件だったため日本国内はもちろん海外にも衝撃を与えました。1999年11月に千葉県成田市のホテルから「4ヶ月以上宿泊をしている不審者な客がいる」と成田警察に通報がありました。警察が通報のあったホテルの部屋を捜索すると、ミイラ化した男性の遺体を発見。発見された遺体は、自己啓発セミナー団体のライフスペースの高橋弘二が「シャクティパット」と呼ばれる病気治療の効果があると宣伝しているものを信じた男の家族のものでした。「シャクティパット」は頭部を手で叩くことで病気が治癒すると宣伝しているものでライフスペース高橋弘二は、事件後記者会見を開き「被害者は司法解剖されて死亡した」。「警察がホテルに捜索に入ったときは被害者は生きていた」などの発言をした事で当時のワイドショーでも大きく取り上げられました。ライフスペース側は、裁判で無罪を主張しましたが最高裁判所で2005年に高橋弘二は懲役7年の判決が確定しました。©Copyright 2020 Carat Woman.